2007年12月01日
根岸掘割川の由来 根岸橋今昔
掘割川に架かる根岸橋の工事が終了しました。
ちょうど根岸地区センター前に根岸掘割川の由来の
レリーフが設置されていますのでご紹介します。
横浜開港資料館所蔵の写真が貼られているので
それからです。

画面の左に茶色く見えるのが根岸監獄の塀です。
川に架かる根岸橋には橋脚が2つ見えます。
新しくなった根岸橋
上の写真とほぼ同じ位置から撮影

由来の碑文です。

最初の画像をアップ
横濱根岸掘割ノ櫻の文字が見えます。
花見で賑わっています

碑文です。
根岸掘割川
掘割川は中村川の池下橋・久良岐橋付近で南に分かれ、
中村橋・天神橋・根岸橋・坂下橋・磯子橋・八幡橋を経て
根岸湾に注ぐ延長2.7キロメートルの人工河川です。
明治3年(1870)、横浜港と根岸湾を結ぶ舟運と
吉田新田「一ツ目沼」埋め立て用の土砂確保のため
神奈川県知事井関盛艮が工事請負人を募りました。
これに応じたのが吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の
子孫たちでした。最大難所だった弥八ヶ谷(中村橋あたり)
の丘を切り下げるとともに根岸湾まで運河を掘り、その土で
湿地帯を埋め立てました。
こうして生まれたのが吉浜・松影・寿・翁・扇・不老・万代・蓬莱
などの町です。
現在動物検疫所のある滝頭波止場が大波で破壊されるなど
予想外に費用がかさみましたが明治7年(1874)にようやく
完成しました。
掘割川は短距離で安全な舟運のため重要な役割を担うと共に
沿岸には問屋・工場のほか各種の施設もつくられ、横浜の近代化に
大きく貢献しました。
市電も中心部から延びて滝頭に車庫ができました。
根岸の人々の手で川沿いに桜並木もつくられ春には
多くの見物客で賑わいました。
掘割川舟運の最盛期を偲ばせる物揚場は今も一部残されて
いますが、地域の発展や水のある町の潤いを復活させるためにも
先人の苦労を思い大切に守っていきたいものです。
このレリーフは皆さんのご尽力で作られました。

根岸地区センターの前にあります

133年後(現在)の根岸橋

ちょうど根岸地区センター前に根岸掘割川の由来の
レリーフが設置されていますのでご紹介します。
横浜開港資料館所蔵の写真が貼られているので
それからです。
画面の左に茶色く見えるのが根岸監獄の塀です。
川に架かる根岸橋には橋脚が2つ見えます。
新しくなった根岸橋
上の写真とほぼ同じ位置から撮影
由来の碑文です。
最初の画像をアップ
横濱根岸掘割ノ櫻の文字が見えます。
花見で賑わっています
碑文です。
根岸掘割川
掘割川は中村川の池下橋・久良岐橋付近で南に分かれ、
中村橋・天神橋・根岸橋・坂下橋・磯子橋・八幡橋を経て
根岸湾に注ぐ延長2.7キロメートルの人工河川です。
明治3年(1870)、横浜港と根岸湾を結ぶ舟運と
吉田新田「一ツ目沼」埋め立て用の土砂確保のため
神奈川県知事井関盛艮が工事請負人を募りました。
これに応じたのが吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の
子孫たちでした。最大難所だった弥八ヶ谷(中村橋あたり)
の丘を切り下げるとともに根岸湾まで運河を掘り、その土で
湿地帯を埋め立てました。
こうして生まれたのが吉浜・松影・寿・翁・扇・不老・万代・蓬莱
などの町です。
現在動物検疫所のある滝頭波止場が大波で破壊されるなど
予想外に費用がかさみましたが明治7年(1874)にようやく
完成しました。
掘割川は短距離で安全な舟運のため重要な役割を担うと共に
沿岸には問屋・工場のほか各種の施設もつくられ、横浜の近代化に
大きく貢献しました。
市電も中心部から延びて滝頭に車庫ができました。
根岸の人々の手で川沿いに桜並木もつくられ春には
多くの見物客で賑わいました。
掘割川舟運の最盛期を偲ばせる物揚場は今も一部残されて
いますが、地域の発展や水のある町の潤いを復活させるためにも
先人の苦労を思い大切に守っていきたいものです。
このレリーフは皆さんのご尽力で作られました。
根岸地区センターの前にあります
133年後(現在)の根岸橋